LESSON 01

自由民権運動

明治十四年の政変で政府は何を約束したのか

政府内対立と民権運動を結び、国会開設の勅諭までを整理します。

このレッスンの役割

前のレッスンでは、民権派が自分たちで憲法案を作るほど運動が広がったことを学びました。ここでは、政府がなぜ1890年の国会開設を約束したのかを考えます。

政府内にも意見の違いがあった

政府内では、どのような憲法と議会をつくるかについて意見が分かれていました。大隈重信はイギリス型の議会政治を参考に、比較的早い国会開設を主張しました。伊藤博文らは、政府主導で時間をかけて制度を整える考えでした。

さらに北海道開拓使の施設を安く払い下げようとした問題が明らかになり、政府への批判が強まりました。

1881年の二つの出来事

1881年、明治十四年の政変で大隈重信が政府から追放されました。その一方、政府は国会開設の勅諭を出し、1890年に国会を開くと約束しました。

政府内の対立 + 自由民権運動と払い下げ問題による世論の高まり → 大隈重信を政府から追放 → 1890年の国会開設を約束 → 政府主導で憲法制定の準備

なぜ九年後だったのか

政府は国会を開くこと自体は認めましたが、すぐに開くのではなく、憲法、議会制度、選挙制度を政府の考えに沿って準備する時間を確保しました。

つまり国会開設の勅諭には二つの面があります。

民権派から見た意味 政府から見た意味
国会開設要求が認められた 準備の主導権と時間を確保した
運動の大きな成果 運動を落ち着かせる狙いもあった

間違えやすいポイント

  • 1881年に国会が開かれたのではなく、1890年に開くと約束した
  • 大隈重信が政府を去ったあと、立憲改進党を結成した
  • 国会開設は民権運動だけでなく、政府内対立や世論も関係した
  • 国会開設の勅諭と大日本帝国憲法の発布は別の出来事
確認1:明治十四年の政変で政府を去った人物はだれですか。

大隈重信です。

確認2:国会開設の勅諭は何を約束しましたか。

1890年に国会を開くことを約束しました。

確認3:政府がすぐに国会を開かなかった理由を説明しましょう。

憲法・議会・選挙の制度を政府主導で準備し、政治の急な変化を避けるためです。

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国会開設が約束されても、農村の生活は苦しくなりました。次は松方財政と秩父事件から、政治運動と経済問題のつながりを学びます。